(発見)楽田城の遺構「遠見の曲輪」「忍者道の痕跡」と、城山古墳群
みなさんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
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楽田城(愛知県 犬山市)の「遠見の曲輪」「忍者道」と、「城山古墳群」(発見)というのは、この記事の結論です。考古学的証明ではありません。 |
織田信長が領有、豊臣秀吉の本陣。徳川家康と対峙あり。櫓(やぐら)からの眺望抜群。地盤頑丈・耐久性保証付。天正十二年当時の超優良居抜き物件。
さて、戦国時代のお城の周辺には、その巨大さ故に必ず痕跡が残っています。楽田城も例外ではありません。お城から少し離れた街道筋に集落のお天王様がありますが、記事主が見る限り、物見櫓があった「遠見の曲輪(くるわ)」にしか見えません。曲輪となれば、織田・豊臣・徳川と、三英傑に関わる貴重な遺構になりますが、日常の中に埋没して誰も指摘しないので、元地元民の私が記事にした次第です。(集落は異なりますが、お天王様から実家まで300mありません)

お天王様は地元「勝部・西北野」集落皆様のもの。
織田家・旧尾張領内で街道脇の、しかもお城から独立した戦国時代の曲輪の遺構というのは、ここ旧楽田村にしか現存しないと思われますが、旧国道建設により東半分は失われ、歩道橋設置により、必要最小限ですが、やや削られています。私が呼ぶところの曲輪は、あくまで地元の大切な「お天王様」ですが、三英傑にかかわる遺構となれば、これは凄いことです。全国でも数えるほどしかない三英傑の遺構のひとつといえます。集落の誇り以外の何ものでもありませんが、今後とも発掘調査等は棚上げして、戦国の痕跡をこのまま地元の方々にお任せして、遠くからそっと見守り続けるのが大前提と記事主は思います。




曲輪の監視する木曽街道上には戦国時代には桝形(勝部の桝形)が設けられており、曲輪と連携して防御態勢が敷かれていました。曲輪はちょうど桝形の要(かなめ)の位置にあり、南北に睨みを利かせていることが分かります。

大正九年作成の国土地理院 2万5千分1 地図
勝部の桝形は現存していますが、地元楽田の人もほとんど知らないと思います。この素晴らしい地域の遺産「桝形」も、日常の中に埋没して忘れ去られてしまうのは忍びありません。お隣の小牧の桝形のように、HPによる周知や、お天王様に説明版があるといいように思います。https://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/shiteibunkazai/4/8/9610.html

曲輪を造るには古墳並みの土量が必要
桝形から曲輪に話は戻ります。「農民にとって土の価値と命の価値は同じくらい重要である」という表現は、水害の脅威に常に晒されてきた木曽三川輪中地域特有の文化や歴史的背景から「土一升に金一升(つちいっしょうにきんいっしょう)という言葉が伝わりますが、楽田村はそこまででは無いにしても、村内のいち集落の神社の3D化は、あまりにも土の使い方が異次元かつ、非合理的過ぎます。
記事主には、西北野(にしきたの)、勝部(かちべ)の「吉野君」「吉野さん」「石田君」といった先祖代々ここに住む苗字の同級生がたくさんいますが、皆真面目・良妻賢母を絵に描いたような級友ばかりです。現在の職業も銀行員、体育の先生、トヨタ自動車、デンソー、航空機メーカー、親父さんの残した工場を継いだ…など、協調性を大事にする、常識ある人たちです。異次元・非合理な発想は、彼らのご先祖様と対極関係にあるはずです。
したがって織田家による軍事目的の造成と考えるのが自然でしょう。織田家がわざわざ古墳造成並みの労力で曲輪を造った理由ですが、
①軍事拠点としての防御の他に、
②櫓の礎石(裏込め石、築石、栗石)等基礎を固め、
③石垣による柔軟性と重力分散効果、
④かつ適切な排水性も確保し、
⑤地震にも対応できるような、
長期間の安定を担保することにあったと解します。
現在も歩道橋の基礎のひとつが、お天王様に据え付けられていることは、②~⑤の理由により非常に理に適った合理的なものといえます。曲輪は今も昔も遠見の構造物を支える、縁の下の力持ちの役割を立派に果たしているのです。

近隣集落の寺社(観音堂・烏森天神・若宮神社)と比較してみます。他は全て2Dです。当たり前ですが、巨大構造物の重量を支える必要も、敵?が寺社を襲撃してくるおそれもないからです。



楽田城近辺の織田家の軍事遺構に木ノ下城がありますが、こちらは先の寺社とは違い3D構造となっています。犬山城築城に伴い、木ノ下城は廃城。現在は愛宕神社になっています。

平城(ひらじろ)は防備が難しい
さて、曲輪の上には、おそらく画像↓のような雰囲気の物見櫓があったと思われます。画像引用:Wikipedia「西尾市の東条城物見櫓」
ただし屋根は藁(かや)葺きで、私が城主なら、火急の折にはに火を付けよ!と厳命します。火柱はお城の天守からも良く見え、全城兵瞬時に相伝わるでしょう。お城のすぐ北の曲輪にも櫓があったはずです。ヒューマンエラーがあっても、火柱をどちらかが見つけることができれば、生存の確率は高まります。たとえ丑三時であろうと、半鐘を鳴らせば襲来も城内に伝わるはずです。楽田城は「天守」「内堀」「外堀」「土塁」「北の曲輪」「遠見の曲輪」「勝部の桝形」と、幾重ものセキュリティシステムが施されていたことになります。※「内堀」の一部は城山の東隣に昭和51年まで現存していました。

こちらが、お城の北の曲輪です。(やはり遠見の曲輪や、木ノ下城と同じ3Dですが、実は…)

北の曲輪の奥から手前にかけて、緩やかに傾斜しています。遠見の曲輪は真っ平です。この傾斜は遥か昔の痕跡でもあります。
記事タイトル回収
その北の曲輪(小城)の位置につき、楽田村史の図を時代に合わせバージョンアップしておきます。昭和30年代当時は、旧楽田村村民ならこの略図で説明不要だったと思われますが、令和では頭の中で再現が難しくなっています。

旧陸軍撮影の空中写真です。うっすらと小城が確認できます。楽田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。ご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森の間と、森の北側に、薄暗い、道が通っていました。
※当時のイメージ画像です。
昭和22年米軍撮影の写真です。鮮明に映っています。確かに森と森の間と、北側に道が通っています。昼間でも薄暗そうです。

昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。

現在のGooglemapで境界に実線を引くと解りますが、これはあきらかに前方後円墳です。後円部の南側が道路境界として残っています。北の曲輪は、織田方が古墳の前方部を平らに削り出したもので、傾斜は古墳時代の名残だったのです。

楽田城址(小学校)と比較すると、巨大古墳であることがわかります。



青塚古墳と比較してみます。墳形は、後円部に比して前方部が短い「同じ形状」をしています。同じ一族のものと考えていいでしょう。
青塚古墳の周りには、かつて倍塚が沢山あり、青塚古墳群を形成していたことは、記事主の曾祖父が調査図を後世に残してくれてわかっていますが、円墳のなかに前方後円墳がポツンと一つだけで、その理由につき疑問に思っていました。どうして前方後円墳は一基のみなのかと。(まさかお城の北側にあったとは!)
他にも痕跡を多数発見しました。便宜上、第1号墳、第2号墳、第3号墳、第4号墳、第5号墳、第6号墳、第7号墳、第8号墳と呼称します。

古墳跡地では、古代と現代が交差する
第3号墳、第4号墳跡は記事主の通学路の途中にありました。本来は丸い敷地外周の公道を通っていましたが、小学生の頃は初中お屋敷の私道も通らせて頂いていました。犬の頭を撫でて、屋敷林の横を通り抜けるのがルーティーンでしたが、不思議で独特な雰囲気が抜群に良かったのです。実は古墳の痕跡だったと知ると、納得できるものがあります。昭和20年代の第2号墳といい、この地域の古墳の跡地は、なんだか異空間の趣が漂うのです。
第3号墳跡の西の入り口は、まるで人が吸い込まれるようでした。(イメージ画像)
真夏の西日を遮り、真冬の伊吹下ろしを緩和する、人にやさしい屋敷林だったと思います。
第1号墳は古墳群最大の112mの後期型古墳です。後期古墳型の特徴として前方部が高く、城址の西側がより急坂なのは、その名残です。昭和の当時は必要最低限の境界補強のみで、古墳の雰囲気が残っていました。
後円部にあった校舎裏の宿直室ですが「学校の怪談」もあって、無茶苦茶怖かった記憶があります。こうして昭和36年の空中写真で確認すると、第2号墳の昼なお暗き森がすぐ北側にあり、怪談の舞台になるのもわかる気がします。

学校の宿直室は、夜間に一人で過ごすためか、足音や物音、人影などの怪現象が起こりやすい場所の定番です。楽田小学校の怪談は、宿直の先生が霊的なものに襲われ取り殺されてしまうという、小学一年生の私や級友たちにとっては、それはもう恐ろしい話だったと記憶しています。
ただ実際は、宿直の担任の先生の陣中見舞いに、近所の本郷の児童が、差し入れを持った親と一緒に大勢でわらわらと遊びに行って、先生と生徒、親同士も交流できたという大らかな時代だったようです。

X まるえつ様の投稿より画像引用 https://x.com/maruetu_daze/status/716636051616321536/photo/1
※地元本郷集落の児童が、わらわらと先生のところに遊びに行く習慣は、宿直制度のなくなった記事主の少年時代にも、集落の記憶なのか(形を変えて)若干残っていました。私自身も二度参加しています。あれは無茶苦茶楽しい思い出です。戦前から昭和30年代の頃も、それはソレハ楽しかったと思います。
なお学校の宿日直は明治期に教育勅語や御真影を守るために始まり、戦後は学校の火災や盗難などを防いだり、地元の人々との連絡や調整などのために続けられてきましたが、昭和40年代に廃止になりました。
令和現在の第5号墳跡です。墳形が土地境界の形で、奇麗に残っています。特に前方部・後円部の西側の水路が、前方後円墳そのものです。ということは4号墳の辺りは、楽田村史「楽田城平面図」では不思議な形で突出した堀ですが、実際には北東の堤防の役割を果たしていたことになります。水没するほど地表を削り取っては、境界の痕跡が残らないと思うからです。少年時代はよく前を通っていましたが、実際、土地は小高い丘のようになっています。

第6号墳跡は令和現在のほうが、境界痕跡がわかりやすいです。後円部があったところには、戦前のものと思われる建屋に書道教室があって、そのむかし記事主も通っていました。独特の雰囲気のある空間でした。

第10号墳跡は円墳か、帆立型前方後円墳か、難しいところですが、昭和57年の空中写真で帆立型前方後円墳と結論しました。私が書道教室に通っていた頃は畑だったと思いますが、なぜこうした閉鎖空間に畑なんだろう?と若干不思議な場所でした。第7号墳跡・第8号墳跡も痕跡から同様に帆立型とみます。第7・8・10号墳跡は志段味の古墳の一族と、婚姻関係があったのかもしれません。
現在の第10号墳跡です。なんとなく古墳時代の面影が残っています。点線の2カ所にも、古墳があるかもしれません。境界(道、水路)が弧状です。(画像下:城山第9号墳)(画像上:城山第11号墳)

…あるかもしれないと思ってGooglemapで見てみると、第9号墳は普通にそこにありました。まるで斑鳩の法隆寺の駐車場の植込みのように、日常に溶け込んでいます。言われてみないと、これが古墳群の倍塚とは、わかりません。
第11号墳跡も昭和23年の画像を見ると、前方後円墳の起伏と境界が確認できました。

第11号墳跡は昭和57年の空中写真に、わかりやすく境界を確認することができました。

それにしても楽田の本郷集落のこの近辺ですが、1700年前の古墳時代の「境界」が物理的な遺構と共に明確に残っている例として、まことに希少な地域といえるのではないでしょうか。
1000年後、古墳は土塁になった
さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。お城築城の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。けっこう巨大です。城址をほぼ一周する分量が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。逆に言いますとこれは古代から戦国時代までの、1000年間、地元本郷の先祖代々「板津さん」「梅村さん」「服部さん」たちが、古墳群を大切に護ってきたことを証明しています。

戦国時代よりも以前の楽田城は、3基の前方後円墳
そもそも楽田城ですが、何故あんなに平らになっているのか疑問です。記事主は第1号墳と、城山古墳、さらにもうひとつ城山古墳の東側に「第0号墳」があったはずで、それら3つを潰して平らにして造られたものと考えています。何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳を改修する方が効率的だからです。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、3基の巨外古墳を潰した築城…もっといえば更に10基以上の古墳も潰して土塁にし、合計14基の古墳から成るのは日本で楽田城だけと思われます。
しかし、これら基本中の基本を、なぜ一庶民の私、素人の記事主が考察しないといけないのか哀しくなります。学者、歴史家はもちろん、地元楽田の人も殆ど誰一人として、国内第二の巨大古墳群、三英傑に関わる御城や、その曲輪や古道、桝形の成り立ちに興味が無く、忘れ去られようとしているのです。青塚古墳群の調査図を後世に残した記事主の曾祖父、松山鶴吉(世襲名、松山忠左衛門)の気持ちがわかるような気がします。おそらく学者、歴史家はもちろん、地元楽田村の人も誰一人として青塚古墳群を、大正5年当時は見向きもしなかったのでしょう。
この記事を読んで頂いてた皆さまは、疑問に思ったはずです。「百舌鳥古墳群に次ぐ規模の、城山古墳群なんて聞いたことが無い」「もしもそんな古墳群が実在しているなら世界遺産暫定リスト(Tentative List)入りだ(笑)」「空白の4世紀の解明に影響がでるレベルでしょう?」「八つの古墳を潰した?楽田城の学術調査は?」…残念ながらそれら全ての基礎となる楽田城の学術調査は、有史以来一度もされたことがありません。調査が継続する徳川家康の小牧山と対照的です。小牧長久手の戦いで敗北し、学術調査でも遺構の再現でも小牧山に敗北する…これが敗者の悲哀というものでしょうか。戦いというのは絶対に勝たなければ駄目と、つくづく思います。
人々が敗者から離れていくのは世の定めです。もしも豊臣方が勝利していれば、勝者の城として、周辺調査も格段に進んでいるでしょうに。でも大丈夫、楽田城!古墳群!ほかの誰も見向きもしなくても記事主だけは、あなたたちの味方です。私個人ができる範囲のことをやって、伝わるようにしておきます。おそらく記事主の死後、そうですねえ…西暦2100年くらいに当記事の内容も、ぼちぼち評価され始めると予想します。測量方法と技術のイノベーション・低価格化と、その頃の日本が大きく変化する反動として。
古墳の命名について
断夫山古墳が造られるまでの200年間の長きに渡り、尾張國で最大級の人工築造物は楽田の複数の巨大古墳でした。次世代に繋げるためにも、いつの日か、22世紀の楽田小学校の児童のみなさんで各古墳の命名をしてもらえると良いかなと思います。
平初期まで一部現存していた戦国時代の道
さて、古墳の命名を小学校のみなさんに一任したところで、記事主は話をまた遠見の曲輪に戻したく思います。
曲輪に物見櫓があるからには、お城へ最短距離で結ばれ、急ぎ駆けつける「忍者道」もあるはずです。櫓を燃やすというのはもちろん最終手段にすぎません。昭和14年の愛知県丹羽郡楽田村土地宝典で確認してみます。


青い点線部分の道が失われているようですが、航空写真で見てみます。

赤丸部分の500年以上前の道の遺構が、土地境界として残っている事も、画像検証でわかります。記事主の少年時代には道そのものが残っていました。1~2尺ほど高低差のある、畔道としては妙に立派な黒土の造りだったと記憶しています。「ここの畦道だけ、何故こんなに立派なんだろう?」と心の片隅にありましたが、まさかこれが戦国時代の道の一部とは、思いもしませんでした。戦国の道で遊んでいたなんて、今にして思えば贅沢な少年時代でした。

イメージとしてはこんな感じです。道幅はもっと狭く半分くらいの、粘土質のしっかりした黒土で、左が塀、右が苺畑でした。少年時代に実際に歩いた道は、地中の丸石や砂利がクッションとなって、それはそれは歩きやすい優しい道でした。
国土地理院「昭和52年の航空写真」の田圃(青田)にも道筋の痕跡が残っています。道だった個所は「砂利と丸石を地中に敷き詰め、その上に砂をかぶせて踏み固める」という工法が使われているはずで、廃道から数十年を経ても、稲の根の発育に影響がでているとおもわれます。

また、緑の丸の空き地ですが、やはり道だった箇所だけ草の生え方等が微妙に異なっているはずです。周りに比べて背丈の低い草が多いと思われます。航空写真でも色が違います。
農林水産省が提供する「eMAFF農地ナビ」を利用し確認してみます。道だった場所に線が表れています。草の背丈が異なるようです。

追記。赤丸の境界部分は高低差も昔のまま残っていました。印が当時の道があったところです。

航空写真で緑丸の空き地にも「道はありそう」でしたが、現地調査をしてみて、道の痕跡が残っており、正直びっくりしました。前述の通り「砂利と丸石を地中に敷き詰め、その上に砂をかぶせて踏み固める」という工法によって、ススキのような背の高い植物・他が、うまく根を張ることができないようです。80年以上前というのに、その土地の、その道の記憶というものは残り続けるのですね。

敷地奥と、手前の道の痕跡部分では、草の生え方に違いがあって、興味深いものがあります。※やはり今の世の中、地元の人以外が立ち入ると通報されるご時世ですのでご注意ください。…まあ入ったところで何も面白くないのですが。
しかし、この道。みれば見るほど忍者道です。今にも忍者が向こうから駆けてきそうです。

楽田は「尾張國の斑鳩」
曲輪、道、そして古墳も、昔から楽田村にあった普通の神社であり、普通の土地境界です。考古学的には発見ではありません。類例では令和4年に「法隆寺の駐車場にある植え込みが、実は古墳」という発見がありましたが、分類上はそれ(学術調査前の植込み)に近いと思います。特に第6号墳はそうです。

斑鳩市教育委員会写真より画像引用
戦国時代が体感できる櫓・道・お城
さて遠くから楽田城へお越しの際には、お城跡に向かう前に、曲輪から歩道橋に上って北の方を眺めてみてください。「美濃勢」を日々監視した、尾張國織田家の先人たちの思いが甦るはずです。歩道橋という物見櫓で北方を見ると、美濃の山々が目視できます。国境は意外に近いのです。(南を向けば徳川家康本陣、小牧山も一望できます)。

ふと目を瞑ると齋藤勢が立浪の旗を押し立て、尾張織田領内に押し寄せてくるのが見えてこないでしょうか?(見えましたね)
急ぎ北の曲輪、楽田城へ掛けつけるテイで、お城まで細い路地を歩いてみてください。忍者道はもう通れませんが稲木街道で行くことができます。

道中は当時、右も左もほぼ全て田圃です。田圃の真ん中を突き進むイメージで。昭和時代までは宅地化も半分程度でした。

そうこうしていると、お城に着きます。画像は現在の城山城址石碑と同じ場所で、坂道の勾配と大楠は変わりません。城下のお堀の跡地は画像の通り、当時田圃でした。現在は埋め立てられて住宅地になっていますが、水路は戦国時代のままの低いところを流れています。

※土塁の際に引用したものと同じ画像です。左から右一直線に、田圃の真ん中を横切っているのは水路で、今も全く同じ場所、同じ高さを流れています。(白矢印)
令和の今も残る楽田城の痕跡
まとめです。かけがえのない楽田城の歴史の遺産が増えました。
①物狂峠
②青塚砦跡
③伝移築門
④城北の曲輪(須賀神社)は城山古墳群のひとつと判明(第2号墳、第3号墳、第4号墳、第5号墳、第6号墳、第7号墳、第8号墳)←NEW!!
⑤城址の高低差と、城周のお堀の跡
⑥南門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑦北之門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑧裏門跡石碑から、お城に至る道の痕跡
⑨砦跡(内久保の三明神社)と内久保の一族の伝承
⑩遠見の曲輪と勝部の桝形、お城に至る忍者道の痕跡←NEW!!
⑪楽田城址(城山古墳)と第1号墳←NEW!!
断夫山古墳(熱田区):墳丘長約150メートル
青塚古墳(楽田村):墳丘長123メートル
城山第1号墳(楽田村):墳丘長約112メートル
白鳥塚古墳(守山区):墳丘長約110メートル
城山第2号墳(楽田村):墳丘長約100メートル
二子山古墳(春日井市):墳丘長約95メートル
城山古墳(楽田村):墳丘長約70〜80メートル
城山第0号墳(楽田村):墳丘長約60〜70メートル































































































































































