名古屋市中区 S.J様 ホンダ NーBOX 車検 ありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
ご予約・お問い合わせはお気軽にどうぞ
> ご予約・お問い合せ
TEL : 0120-106-119
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の朝7時半にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
織田信長の領有を経て、小牧長久手の戦いで太閤秀吉の本陣にもなり、徳川家康と対峙した、
| ①楽田城址、愛知県の「犬山市立楽田小学校」周辺には最大で墳丘長約120mにも及ぶ城山古墳群(群集墳)があった。 |
| ②楽田城は複数の巨大古墳を切り崩し築造されており、戦国時代の城郭遺構の下に古代の古墳群が眠っている形となっている。 |
| ③七大古墳群のある楽田村は、百舌鳥・古市古墳群に次ぎ、日本で2番目の古墳密集地。 |
| ④上記七大古墳群のうち、三ツ塚・長塚古墳群には390m級の前方後方墳が1~3基、300m級2~3基、270~280級3~4基、150m級も3基以上存在し、狗奴國、もしくは別王朝が存在した可能性大。 |
以上のように、この記事では結論付けます。(なお古墳群の存在を実証するためには、発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえることを、予め記載しておきます)

すべての始まりは大正5年、記事主の曾祖父による青塚古墳群調査圖でした。曾祖父の調査がなければ、記事主による発見も有りません。まずは青塚古墳の東側から検証をはじめます。
・狗奴國系のものと思われる前方後方墳を2基発見しました。昭和30年代までは境界線は残っていましたが、楽田工業団地の造成にともない、完全消滅してしまいました。
・巾集落は、武智屋敷古墳・太吉屋敷古墳、の両墳を中心に形成されたとわかりました。記事主の親戚や友人、知人も巾集落に住んでいますが、なぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、疑問でしたが、まさか古墳の上にまとまって住んでいたとは。
青塚古墳群は青塚以外は全て小墳(倍塚)と解されてきましたが、記事主による検証調査の結果、青塚古墳と同等、または上回る120m~130m級の前方後円墳が複数存在し、狗奴國系の前方後方墳も混在していることがわかりました。
大正5年の調査図に「コマ塚」とありますが、はたして前方後円墳なのか、前方後方墳なのか判別に困りました。昭和24の米軍撮影空中写真を確認すると、ハタと気づきました。確かに「コマだ!」「コマ塚」とは形のことだったのか!と。

明治大学などの研究論文で、昭和37年(1962年)に発表された「前方後方墳序説」といったタイトルが確認されており、この頃には明確な定義を持つ用語として使用されていましたが、大正5年当時は前方後方墳という学術用語はなかったのです。そこで「コマ塚」と表現して、「四角い後方部」と「長細い前方部」の形を何とか伝えようとする松山鶴吉の意図が読み取れます。曾祖父の少年時代は天保年間から流行った鉄胴独楽型の木や竹でできた唐コマで、明治の頃はブリキ製になったようですが、いずれにせよ、この形のコマがなじみ深かったと想像します。
平塚古墳群の痕跡は消滅してしまいましたが、その地名は「平塚・北平塚・上平塚・中平塚・下平塚」として、今も残っています。地名はその土地の記憶です。平塚の両墳は、松山鶴吉の調査図の範囲よりも北側に位置していますので、後述の三ツ塚古墳群の領域とした方がいいかもしれません。

平塚第1号墳跡は現在は株式会社コーミソース工場・カルビーロジスティクス 中部センターに、平塚第2号墳跡は武田製菓本社工場・お菓子の城になっています。


武智屋敷古墳は北側の境界が奇麗に現存しています(昭和52年空中写真)
・青塚古墳のすぐ南東に前方後円墳らしき境界がありますが、現存していれば青塚古墳と同じく120m級の巨大古墳となりますが、現在では西楽田団地として整地されています。
・その更に東南に調査図記載の古墳(コマ塚)が見つかりました。コマ塚とは先述の通り、墳形を指します。地名から一色浦古墳とこの記事では呼称します。形状から狗奴國系の前方後方墳と思われます。
先述の巾と同じく、記事主の同級生が、一色浦集落に住んでいますが、やはりなぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、昔から疑問でしたが、古墳の上にまとまって住んでいたとは…。古墳の遺構は周囲の水田よりも少し高くなっているため、巾や一色浦集落において、貴重で(対水害・地震にも安全な居住地/微高地)と解します。
続けて、大正五年の調査図の西端の亀塚について検討します。この集落は大円(だいえん)といって、楽田村の西の端にあります。記事主は前からこの集落が気になっていました。というのはここから徒歩で小学校まで通う同級もいたからです。
この通り、青塚集落よりも、さらにもっと遠いのです。通学路ですから、最短距離を歩くわけにもいかず、子供の足で1時間半以上かかります。隣の行政区、小牧市の小学校に行った方が余程近いのです。小学生時代の記事主にとっては見たことも聞いたこともない世界が大円なのです。その大円ですが、昭和23年の米軍撮影空中写真で地図で確認すると、狗奴国系の前方後方墳らしきものがありますので、(コマ塚と同じく形から)こちらが亀塚と結論します。
樂田大圓(大円)の地名の由来になったと思われる大きな円形の土地境界も気になります。おそらく狗奴国の環濠集落の痕跡で間違いないと思います。東南にのびるうねうねした道には桝形が3カ所確認できます。外敵の侵入に備えた当時の道の痕跡なのでしょう。1700年前に桝形があったのは驚愕するしかありません。「狗奴国と邪馬台国の争いの痕跡は見つかっていない」とされますが、間接的証拠の痕跡は楽田村の大圓環濠集落遺跡にあったのです。現在は耕地整理され、土地境界は完全に失われています。

高槻市・島本町地域NEWS 号外NET様HPより画像引用
https://takatsuki.goguynet.jp/2021/02/25/amaiseki_koen_2jikaien_area_report/

防御としての「桝形(ますがた)虎口」は、主に戦国時代末期(16世紀中頃〜末期)、特に織田・豊臣政権下で急速に普及・発展した城郭の防御構造ですが、狗奴国と邪馬台国の時代にすでにあったとなると、1200年時代を先取っていたことになります。しかし桝形がなぜ織田・豊臣政権下で普及したのでしょうか? …もしかすると、織田方の武将の誰かが、尾張楽田村の大圓環濠集落遺跡から着想を得たことも十分考えられます。歴史のロマンですね。
時は戦国時代初期、織田方の武将が戦(いくさ)の際、大圓集落を通りかかったとき、ふと不思議な道に出くわした際の図。

Googleジェミニさんに頼んだら想像図を作ってくれました。
青塚古墳群は以上で、続けて姫之宮古墳群、姫之宮南古墳群、蓮池古墳群 です。
昭和36年国土地理院空中写真より、令和8年 記事主作成姫之宮古墳群、姫之宮南古墳群、及び三ツ塚・長塚古墳群
姫之宮古墳群と蓮池古墳群の中間にも15~16基見つかりました。(姫之宮南古墳群)そのうち10基のみ境界作図しました。次から次に見つかります。古墳時代のこの地域(楽田)の支配者、そして支える被支配層も一体となって相当長期間にわたって繁栄していたことが伺われます。

蓮池古墳群 特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク様HPより画像引用
https://niwasato.net/home/archives/7336/
全国的にも希少な前方後方墳の古墳群です。空中写真で三ツ塚・長塚古墳群を見たとき、衝撃を受けました。明らかに楽田の他の五つの古墳群とは異質・異文化・異形態で、3世紀以前の楽田村は狗奴国、もしくは別王朝とするしかありません(青塚古墳群の平塚古墳と一色浦古墳も前方後方墳ですが、後に発見しました)。狗奴国の可能性が高いということは、必然的に邪馬台国は畿内説になります。
いずれにせよ楽田村は前方後方墳と、前方後円墳のせめぎ合いも確認できる、古代史の重要な地域のようです。この記事ではこれ以上言及するには容量が足りませんので、別記事に纏めておきました。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1810
狗奴國首長墳発見
閑話休題。記事主は以前より、まるで大阪城の真田丸のような出城、楽田城の小城址が気になっていました。別記事での検証中、境界に実線を引いたことで、青塚古墳によく似た前方後円墳と気が付き、そして国土地理院の昭和22~36年の空中写真で周辺をよく見ると、驚くほど多くの前方後円墳の痕跡と、唯一の現存する前方後円墳を発見するに至りました。この記事では城山古墳群と仮称しますが、他県の城山古墳群と区別するために、集落名の本郷より本郷城山古墳群(ほんごう-しろやま-こふんぐん)と呼称した方がいいかもしれません。
実際に現地へ行くと、画像の通り、奥から手前に緩やかに傾斜していることがわかります。
次に楽田城小城址の旧陸軍撮影の空中写真です。お城の北側にうっすらと小城が確認できます。楽田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。
記事主のご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森の間に、道が通っていることがわかります。
昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。

現在のGooglemapで境界に実線を引くと解りますが、この通り、あきらかに前方後円墳です。後円部の南側が道路境界として残っています。小城址は、織田方が古墳の前方部を平らに削り出したもので、傾斜は古墳時代の名残だったのです。

楽田城址(小学校)と比較すると、巨大古墳であることがわかります。

google Geminiによる再現図
なお便宜上、城山古墳群につき、第0号墳~第24号墳と呼称します。

【愛知県の古墳】(※あまりにも次から次に巨大古墳を発見しすぎて、途中で作成を放棄しています)
三ツ塚大塚古墳(楽田村・羽黒村):墳丘長約390メートル
北野屋敷古墳(羽黒村):墳丘長約306メートル
林吾塚古墳(楽田村):墳丘長約305メートル
追分古墳(楽田村):墳丘長約282メートル
五里塚古墳(楽田村):墳丘長約278メートル
東追分古墳(楽田村):墳丘長約274メートル
長塚第1号墳(楽田村):墳丘長約153メートル
長塚第2号墳(楽田村):墳丘長約152メートル
断夫山古墳(熱田区):墳丘長約151メートル
長塚第3号墳(楽田村):墳丘長約149メートル
青塚古墳(楽田村):墳丘長123メートル
城山第1号墳(楽田村):墳丘長約120メートル
白鳥塚古墳(守山区):墳丘長約110メートル
城山第2号墳(楽田村):墳丘長約100メートル
二子山古墳(春日井市):墳丘長約95メートル
……
城山古墳(楽田村):墳丘長約80メートル
長塚古墳(楽田村):墳丘長約80メートル
城山第0号墳(楽田村):墳丘長約70メートル
第7号墳、第8号墳跡は記事主の通学路の途中にありました。本来は丸い敷地外周の公道を通っていましたが、小学生の頃は初中お屋敷の私道も通らせて頂いていました。犬の頭を撫でて、屋敷林の横を通り抜けるのがルーティーンでしたが、不思議で独特な雰囲気が抜群に良かったのです。実は古墳の痕跡だったと知ると、納得できるものがあります。この地域の古墳の跡地は、古墳時代の境界が現存しており、なんだか異空間の趣が漂うのです。
第7号墳跡の西の入り口は、まるで人が吸い込まれるようでした。(イメージ画像)真夏の西日を遮り、真冬の伊吹下ろしを緩和する、人にやさしい屋敷林だったと思います。

第1号墳は古墳群最大120m級の後期型古墳です。この通り大きいです。奥の方が後円部です。

120mの古墳丘長全体を、前方部の西端から見ると、もやは後円部が霞んで見えます。(2024年撮影のGooglemap)

仮に現存していた場合(古墳全体が小学校の敷地に取り込まれている…というだけで現存はしているのですが)↓のような姿をしていたことでしょう。Googleジェミニによる再現図です。

後期古墳型の特徴として前方部が高く、旧体育館の頃、城址の西側のほうが、より高低差があったのは、その名残です。昭和の当時は必要最低限の境界補強のみで、古墳の雰囲気が残っていました。令和の現在も後円部の東端には若干古墳時代の面影があります。

それにしても、第1号墳東端のこの建物、記事主の小学生時代からここにあります。もしかすると楽田小学校に残る、最古の建屋かもしれません。
もうひとつ第1号墳の思い出話を。後円部にあった校舎裏の宿直室ですが「学校の怪談」もあって、無茶苦茶怖かった記憶があります。こうして昭和36年の空中写真で確認すると、第2号墳の昼なお暗き森がすぐ北側にあり、怪談の舞台になるのもわかる気がします。

学校の宿直室は、夜間に一人で過ごすためか、足音や物音、人影などの怪現象が起こりやすい場所の定番です。楽田小学校の怪談は、宿直の先生が霊的なものに襲われ取り殺されてしまうという、小学一年生の私や級友たちにとっては、それはもう恐ろしい話だったと記憶しています。
ただ実際は、宿直の担任の先生の陣中見舞いに、近所の本郷の児童が、差し入れを持った親と一緒に大勢でわらわらと遊びに行って、先生と生徒、親同士も交流できたという大らかな時代だったようです。

X まるえつ様の投稿より画像引用 https://x.com/maruetu_daze/status/716636051616321536/photo/1
※地元本郷集落の児童が、わらわらと先生のところに遊びに行く習慣は、宿直制度のなくなった記事主の少年時代にも、集落の記憶なのか(形を変えて)若干残っていました。私自身も二度参加しています。あれは無茶苦茶楽しい思い出です。戦前から昭和30年代の頃も、それはソレハ楽しかったと思います。
なお学校の宿日直は明治期に教育勅語や御真影を守るために始まり、戦後は学校の火災や盗難などを防いだり、地元の人々との連絡や調整などのために続けられてきましたが、昭和40年代に廃止になりました。
その第1号墳のすぐ東隣にある、令和現在の第13号墳跡です。墳形が土地境界の形で、奇麗に残っています。特に前方部・後円部の西側の水路が、前方後円墳そのものです。この辺りは、楽田村史「楽田城平面図」では不思議な形で突出した堀ですが、実際には北東の堤防の役割を果たしていたことになります。水没するほど地表を削り取っては、高低差が残らないと思うからです。後述する第3号墳とは異なり、こちらは堀状にはなっていなかったのではないかと。少年時代はよく前を通っていましたが、実際、土地は小高い丘のようになっています。
第20号墳跡は令和現在のほうが、境界痕跡がわかりやすいです。後円部があったところには、戦前のものと思われる建屋に書道教室があって、そのむかし記事主も通っていました。独特の雰囲気のある空間でした。

第20号墳の前方部です。高低差がまだ残っています。ということは、第20号墳は(第2号墳同様に、完全に消滅はしておらず、)まだ一部が残っていると認定していいでしょう。(記事主認定)

第17号墳跡は円墳か、帆立貝型前方後円墳か、難しいところですが、昭和57年の空中写真で帆立貝型前方後円墳と結論しました。私が書道教室に通っていた頃は畑だったと思いますが、なぜこうした閉鎖空間に畑なんだろう?と若干不思議な場所でした。第21号墳跡・第22号墳跡も痕跡から同様に帆立型とみます。志段味の古墳の一族と、婚姻関係があったのかもしれません。
現在の第17号墳跡です。なんとなく古墳時代の面影が残っています。点線の2カ所にも、古墳があるかもしれません。境界(道、水路)が弧状です。(画像下:城山第16号墳)(画像上:城山第19号墳)

…あるかもしれないと思ってGooglemapで見てみると、第16号墳は普通にそこにありました。まるで斑鳩の法隆寺の駐車場の植込みのように、日常に溶け込んでいます。言われてみないと、これが前方後円墳とは、わかりません。画像では小さく映っていますが、現地調査した結果、墳長は12mあり、「意外に大きい」という印象を受けました。こちらのご自宅の先々代の大(おお)先生には小学生の頃、何度も何度も本当にお世話になりました。
曲輪、道、そして古墳も、昔から楽田村にあった普通の神社であり、普通の土地境界です。考古学的には発見ではありません。類例では令和4年に「法隆寺の駐車場にある植え込みが、実は古墳」という発見がありましたが、分類上はそれ(学術調査前の植込み)に近いと思います。特に第9号墳はそうです。
第19号墳跡も昭和23年の画像を見ると、前方後円墳の起伏と境界が確認できました。すぐ南側に第18号墳の起伏も見つけることができました。両墳共に昭和30年までに境界は消滅していますが、墳丘長敷地は痕跡として今も残っています。昭和23年の時点では第15号墳の後円部と、前方部の西半分の境界も現存していることがわかります。


第14号墳は昭和36年と昭和24年の空中写真で確認することができます。第16号墳と同じく、墳丘長は約12mです。写真では小さいのですが、民家の庭に12mの古墳があると思うと「けっこう巨大」です。

第23号墳跡と第24号墳跡は昭和57年の空中写真に、比較的わかりやすく境界を確認することができました。


第9号墳の西側前方部の前田屋さんの敷地に境界の一部と、東側の前方部・後円部に水路が境界として確認できます(昭和23年空中写真)。令和時代も水路は現役です。第9号墳の前方部東側には、昭和時代には「くもん教室」があって、記事主も通っていました。余談ですが、前田屋さんでは昭和50年代初めまで、お店でラーメンを食べることができました。あのラーメンを食べることができなかったことは若干心残りです。


第10号墳と第11号墳につき、1700年前の道と水路が現存しています(令和6年、令和8年写真)(昭和23年空中写真)。住宅街に、このような古代の痕跡はなかなか見ることができません。左右に前方後円墳はハの字に並んだ、古墳時代の光景が目に浮かぶような、かつての境界です。



しかし第10号墳・第11号墳といい、本郷集落は古代の境界、水路がそのまま現存・現役であるところが、非常に興味深い地域です。私の少年時代は「城下町だから道が複雑なんだろう」くらいに思っていましたが、実は「1700年前の御陵地」が起源なので、それどころではなかったのです。

第12号墳は米軍撮影昭和24年空中撮影に、痕跡を確認することができます。


昭和34年国土地理院空中撮影にも、前方部および、後円部西半分の痕跡を確認することができます。


城址の西側にも1基発見することができました。第6号墳は昭和52年国土地理院空中写真にも痕跡が確認できます。前方部は令和の今も境界は健在で、高低差も確認できます。
なお前方部の北側に隣接する建物は、昭和時代はそろばん塾でした。城山古墳群に近隣には文教施設が多いような気がします。城山古墳、第0号墳、第1号墳は小学校。第17号墳、第20号墳、第21号墳、第22号墳は書道教室が隣接。第8号墳、第9号墳、第10号墳の近隣はくもん教室。第7号墳の線路の踏切を挟んだすぐ向かい側は日本舞踊教室でした。私の同級のひとりもここで学んでしました。なお私の通学路でもあったこの踏切は、廃止されて通行止めになっていました。
| そろばん塾 | 第6号墳 |
| 書道教室 | 第17号墳、第20号墳、第21号墳、第22号墳 |
| くもん教室 | 第8号墳、第9号墳、第10号墳 |
| 日本舞踊教室 | 第7号墳 |
| 楽田小学校 | 城山古墳、第0号墳、第1号墳 |
昭和時代の本郷には個人宅に「生け花・茶道教室」「大正琴」「ピアノ教室」の小さな看板が普通に掛けてあって、他の古墳の周辺にも文教施設があったと思います。古墳の跡地というのは、古代と現代が交差する独特の雰囲気があり、それが教育環境に向いているのでしょうか…
なお楽田城裏之門石碑の近隣には音楽教室が今も健在で、北之門の石碑近くには、昭和時代にそろばん教室があって、記事主も通っていました。やはり中世の独特の雰囲気(歴史の記憶)ともいうべきものが残っていました。
| 音楽教室 | 裏之門石碑 |
| そろばん教室 | 北之門石碑 |
城山の南側にも3基発見することができました。まずは第4号墳と、第5号墳です。
昭和52年の国土地理院空中写真です。第4号墳は40~50mありそうです。
第5号墳前方部は、第8号墳前方部と同じように、昭和の頃は屋敷林でした。北側にある道は通学路で、記事主も通っていました。この通学路は戦国時代の道の痕跡でもあります。楽田城南門入口から、お城に続く道なのです。奥の方に「何かあるのかな?」「林?」「どうしてここに林?」「なんだか不思議な空間だな…」とは思っていましたが、まさか古前方後円墳が2基があるとは気が付きませんでした。本郷という集落は、古代・戦国・現代の、空間・境界・道・水路が、混在・一体化しており、異空間の狭間に迷い込んだような、そんな錯覚をおぼえます。
楽田村史にある楽田城平面図の「堀」につき、その深さが疑問でしたが、第3号墳の境界が残っていたということは、普通の水田だったと、この記事では結論付けます。深さが10m、15mあったとすれば、古墳の境界は消滅するからです。お城の北側と、お城の西側は「外屋敷」という地名の痕跡が示す通り住居地が多く、お城の東と南側は普通に水田地帯だったと解します。水田というのは落口桝(おちぐちます)を閉じれば普通に池になります。 水田はあくまで「農業生産の場」であって、平時は食料供給源、戦時は防御施設という二面性は織田時代から続く伝統だったと解します。田のぬかるみは騎馬や歩兵の移動速度を著しく低下させるという、敵が容易に近づけない構造があれば、それは十分に堀の役割を果たしたのです。
というわけで、簡易的ではありますが、楽田村史「楽田城平面図」を70年ぶりに更新しておきます。

さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。小牧長久手の合戦において、防御陣地構築の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。豊臣秀吉10万の大軍をもってすれば極めて短時日で構築可能だったと思われます。土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。けっこう巨大です。城址をほぼ一周する分量が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。逆に言いますとこれは古代から戦国時代までの、1000年間、地元本郷の先祖代々「板津さん」「梅村さん」「服部さん」たちが、古墳群を大切に護ってきたことを証明しています。

そもそも楽田城ですが、何故あんなに平らになっているのか疑問です。記事主は第1号墳と、城山古墳、さらにもうひとつ城山古墳の西側に「第0号墳」があったはずで、それら3つを潰して平らにして造られたものと考えています。何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳を改修する方が効率的だからです。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、3基の巨大古墳を潰した築城…もっといえば更に10基以上の古墳も潰して土塁にし、合計20基以上の古墳から成るのは日本で楽田城だけと思われます。なぜならベースとなる楽田城段丘の地質が周囲の平地と全く変わりないからです。
濃尾平野には「ポツンと段丘」が楽田城の他に、岩崎山・小牧山がありますが、それぞれ花崗岩・チャートです。楽田城が段丘状たる地質学的必然性が不明で、巨大古墳を基にした人工築造物と結論付けます。

※名古屋空港(旧小牧陸軍飛行場)が造成される以前には岡山・佛鬼山という標高二十メートルの段丘がありました。やはり花崗岩か、もしくはチャートの地質と思われますが、今となっては確かめる術がありません。
しかし、これら基本中の基本を、なぜ一庶民の私、素人の記事主が考察しないといけないのか哀しくなります。学者、歴史家はもちろん、地元楽田の人も殆ど誰一人として、国内第二の巨大古墳群、三英傑に関わる御城や、その曲輪や古道、勝部の桝形の成り立ちに興味が無く、忘れ去られようとしているのです。青塚古墳群の調査図を後世に残した記事主の曾祖父、松山鶴吉(世襲名、松山忠左衛門)の気持ちがわかるような気がします。おそらく学者、歴史家はもちろん、地元楽田村の人も誰一人として青塚古墳群を、大正5年当時は見向きもしなかったのでしょう。
この記事を読んで頂いてた皆さまは、疑問に思ったはずです。「百舌鳥・古市古墳群に次ぎ、久津川古墳群に並ぶ、国内第二の古墳群が、小さな旧村にあるなんて聞いたことが無い」「もしもそんな古墳群の村が実在しているなら世界遺産暫定リスト(Tentative List)入りだ(笑)」「空白の4世紀の解明に影響がでるレベルでしょう?」「20基以上の古墳を潰した?楽田城の学術調査は?」…残念ながらそれら全ての基礎となる楽田城の学術調査は、有史以来一度もされたことがありません。調査が継続する徳川家康の小牧山と対照的です。小牧長久手の戦いで敗北し、学術調査でも遺構の再現でも小牧山に敗北する…これが敗者の悲哀というものでしょうか。戦いというのは絶対に勝たなければ駄目と、つくづく思います。
人々が敗者から離れていくのは世の定めです。もしも豊臣方が勝利していれば、勝者の城として、周辺調査も格段に進んでいるでしょうに。でも大丈夫、楽田城!古墳群!ほかの誰も見向きもしなくても記事主だけは、あなたたちの味方です。私個人ができる範囲のことをやって、伝わるようにしておきます。おそらく記事主の死後、そうですねえ…西暦2100年くらいに当記事の内容も、ぼちぼち評価され始めると予想します。測量方法と技術のイノベーション・低価格化と、その頃の日本が大きく変化する反動として。
古代世界の尾張國で最大級の人工築造物は楽田の複数の巨大古墳でした。次世代に繋げるためにも、いつの日か、22世紀の楽田小学校の児童のみなさんで各古墳の命名してくれる日がくることを願います。
藤子・F・不二雄先生「 ドラえもん」『のび太もたまには考える』小学六年生 1983年3月号/大全集10巻より、画像引用
令和7年12月27日~大晦日の夜9時まで営業しています。
令和8年元日のみ、休業
令和8年1月2日の早朝7時より営業しています。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時半にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時に御社までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。
この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。
ご指定の早朝6時にご自宅までお引き取りすることができました。
陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、
アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。
また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。