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NEWS RELEASE 新着情報

多治見市 S.M様 VW ビートル車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

阿久比町 S.D様 マツダ アテンザ 車検 ありがとうございました。 

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前5時20分に保管場所の駅前駐車場までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

江南市 宗教法人様 スズキ ジムニー、タイヤ交換 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半に御教会までお引き取りすることができました。

タイヤ交換4本に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

名古屋市港区 I.K様 トヨタ プリウスα車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

瑞穂区 H.M様 ホンダ N-BOX バッテリー交換・車検 ありがとうございました。 

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

東海市 法人様 トヨタ ハイエースバン 車検 ありがとうございました。 

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半に御社までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

岐阜市 I.G様 トヨタ ピクシスエポック 車検 ありがとうございました。 

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

豊橋市 O.R様 スズキ ハスラー 車検 ありがとうございました。 

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

江南市 宗教法人様 スズキ ジムニー車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の午前6時半に御教会までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

愛知県 犬山市(旧楽田村)「青塚古墳群」と、曾祖父「松山鶴吉(松山忠左衛門)」のはなし。

 

さて本記事タイトル、愛知県犬山市、旧楽田(がくでん)の、青塚古墳」ついて、公式HPから引用します。

■青塚古墳群
周辺にはかつて多数の小さな古墳があり,青塚古墳群を形成していたことがわかってます。現在は,わずかに数基が残っているだけです。(後略)

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https://niwasato.net/aotsuka/kohun.html

さらっと、青塚古墳群を形成していたことがわかってます …と書いてありますが、なぜそれがわかるのでしょうか?

こちらをご覧ください。

松山鶴吉調査の図.png

「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告 第八」によれば、大正5年の曾祖父の調査図が第一次資料になっています。これからも松山鶴吉氏の調査によれば…と、引用は続けられるでしょう。曾祖父は郷土史に名前を残したことになります。調査図は曾祖父が個人の資格と、個人で拠出した資金による、所有権に基づく発掘調査の折に作成されたものです。

ご本家当主の松山鶴吉は世襲名 松山忠左衛門を名乗った最後の人です。大正5年当時、青塚古墳は忠左​さん個人所有の前方後円墳で、のちに尾張二宮の大縣神社さんに寄贈しました。
明治~大正当時は食糧難の時代でした。近代化と宅地開発、そして急激な人口増と米食率の増加によって食糧難は、より拍車がかかりました。そんな時代に曾祖父はなぜ寄贈を…


ここで少し余談です。愛知県最大級の古墳が、そもそもどうしてこんな片田舎たる楽田の地にあるのでしょうか? 答えはコメの品質です。青塚古墳のある旧楽田村で穫れる米は地形的に尾張の平野地域で最も美味いそうです。青塚古墳周辺の田んぼで獲れる米が美味い…これはどの考古学資料にも載っていませんし、学問の分野ではないので、これからも載ることはありません。

楽田より西の濃尾平野はかつては東海湖と呼ばれる巨大な湖でした。(※濃尾西部は陸化した湖底土のため凝集性や侵食抵抗性が極めて小さく、けっして肥沃とはいえませんが、それを逆手にとって地域の強みとし、養蚕業と繊維産業が大いに発達しました)

楽田の南側も東海湖の名残で名古屋城のすぐ北側まで湿地帯が広がっていました。(※この地域もまた、今では県内有数の航空宇宙産業の集積地として発展しています)

余談続きます。楽田は木曽川扇状地の粘土質により、保水力と水はけのバランスに優れ、稲の根が安定して土中に深く伸びやすく、有機物や栄養素を適切に保持するといいます。楽田の稲に土壌の酸欠状態というのは有り得ないのです。先祖代々大切に守られ、水田の底に沈みこんだ、きめ細やかな楽田の土は、もはや何ものにも代え難いのです。仮に、「楽田の水田と同等の土をつくれ!」と何処の誰かが命令したとします。完成するのは同じ手間暇をかけたとしても1700年後、もっといえば木曽川の堆積で十数万年…要するに再現不可能です。
さらには里山が近くにあり水質が抜群に良くミネラルが豊富、台地の縁にあるため地下水脈水量も豊富。当家の庭にも手押しポンプがありました。昭和40年代、近くに工業団地ができるまでは、綺麗でおいしい豊富な井戸水がタダで使いたい放題使えたそうです。夏場はスイカも冷やしたと言っていました。

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比較的内陸部にあるため寒暖差もあります。楽田〜各務原の辺りは濃尾平野南部に比べて夏の昼間の平均気温が1℃高いそうです。風が吹きません。各務原飛行場・小牧飛行場があるくらい「風が穏やかな土地」なのです。記事主は現在名古屋市内在住ですが、灼熱の楽田?よりも涼しく感じます。そんな灼熱の楽田も早朝に限っては里山が太陽光を遮り、冷涼で快適です。

記事主も少年時代、祖父のお墓のある楽田の里山にクワガタを探しに行ったものです。真夏というのに、それはそれは冷んやりしていました。そんな里山のおかげで朝の空気は冷やされ、米粒の中にデンプンがより多く蓄積され粘りや甘みの強いお米が育つと思われます。

…そのような寒暖差かつ、まとまった平地(楽田五千石)と、米作りの好条件がいくつも重なっていました。巨大古墳が存在するくらいです。古代の権力者も、おそらく大のコメ好きで、この米どころの楽田の肥沃な土地を気に入り、趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤としたのでしょう。

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楽田のお米は南北朝時代以来、飛保の曼荼羅寺さんへの奉納米としても珍重されてきました。これは旧楽田村の松山一族の檀家しか知りません(笑)。お寺の他の檀家さんは現金かお米(ほぼ現金)のお布施のところ、楽田のお米だけは、コメが大幅に値上がりする前の、令和のつい最近まで、文字通り楽田だけが最後の最後までお寺の求めで米の奉納をしていたそうです。米の奉納は800年間先祖代々延々と当たり前に続いてきたことなので、楽田以外の他の丹羽十人衆ご子孫の檀家さんが(ほぼ現金)でお布施しているなんて、一族の誰も気が付かなかったそうです。

曼荼羅寺さんがこっそりと伏せておく?くらい、曼荼羅寺さんも太鼓判の、曼荼羅寺さんも大好きで甘みがありもちもちとした食感で、冷めても美味しい、濃尾平野のココだけでしか採れない究極のお米です。「身土不二(しんどふじ)」ではありませんが、人間の身体とそれが生きる土地と農作物は一体であって、切り離せません。他地域のブランド米もバツグンに美味しいのですが、尾張の気候風土に合ったコメを食べるほうが、よりおいしく、健康に良く寿命も延びることを曼荼羅寺さんもよくご存じだったと思うのです。曼荼羅寺の歴代おっさま、もちろん長寿命です。


松山家のご先祖様は楠木正成(大楠公)と共に千早城の戦いに参加しています。正慶乱離志『楠木合戦注文』によれば、天王寺の構を攻めた正成の軍勢は、四条少将以下、楠木一族、(中略)、判官代松山ならびに子息等、(後略)…と記録されています。もともとは後醍醐天皇のもとで政務を補佐し、御皇室の土地の管理や年貢の徴収、庶務などを担当(判官代)していた京武士で、大楠公に加勢しました。松山氏は、おそらく5~6人の加勢ですが、技術顧問として存分に力を発揮したと解します。松山一族は土木工事・治水事業の技能集団でもあったらしく、兵庫県三田市(松山の庄)には多くの砦や城、そして「松山の堰」を築くなど、善政によって地元領民から感謝されています。千早城の戦いの、二重の壁、丸太落とし、石落とし等の仕掛けにも、松山氏の建築土木技術があったと考えるのが自然ではないでしょうか。


時は流れここ尾張の國 丹羽郡の地に根を張り、曼荼羅寺(後醍醐天皇の叔父が開山)を菩提寺とした「葉栗丹羽十人衆」の一人ですが、なぜ松山一族だけが曼荼羅寺から遠く離れた、里山に近い楽田の荘を根拠地に決めたのか、疑問でした。以前は対北朝戦に備え、大楠公伝統の山岳ゲリラ戦の軍事戦略のために寺領の荘官として任官された…と解していました。実際200年後、尾張本宮山は織田信長が一大城塞の候補地にするほどでした…が、まさか古代の古墳の一族と同じ理由「趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤とした」だったなんて!…歴史は繰り返すものです。元の官職が判官代なので土地を見極める眼力は確かだったのでしょう。
※近隣村では、楽田村よりも山間部の旧今井村のコメのほうが、もっと旨いことを記しておきます(個人の感想です)。がしかし、古墳時代や、南北朝時代当時では山間部の耕地面積は限られていました。輸送手段のトラックなんてもちろんありません。平野部でこれだけの品質で、しかも纏まった実質五千石穫れるのは現実的に大きかったと解します。

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私としては、1700年前も、南北朝時代も、今も変わらぬ平和でおだやかな田舎の楽田村が、1700年後も、3400年後の未来も、古代と変わらず美味しいコメを作り続けてほしいと願わずにはいられません。

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名鉄小牧線沿線「田県神社~楽田」.png

青塚古墳のガイダンス施設は、ほんとうに素晴らしい施設です。記事主個人としては「レストランを併設すればいいのに」と常々思います。楽田のコメを実際に来て、観て、味わってもらえば難しい説明よりも一発で「美味い!古代の古墳の一族が楽田を選ぶわけだ」なるほど、そうか、なるほど…そういうわけか。と心の底から納得して頂けるでしょう。楽田で穫れた、ここでしか味わえない1700年伝統の究極のコメを、最も旨味の引き立つ薪炊飯で提供する。外国人観光客は、薪で炊飯の炎と伝統文化に見入り、あまりの美味しさに目の玉が飛び出るくらい驚いて、土産に5Kgと小型のジャパニーズ羽釜とセットに2万円で販売して飛ぶように売れるというのに。ちょっとした鎧の武者が小牧長久手の戦いの戦場の炊き出し(赤味噌ベース)のリアルな再現も欧米の人々に大ウケすると思うのです。…しかし、そんな事はけっして100%絶対にやらないのが楽田村の良いところでもあるのですが。

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画像引用:日テレニュース【大好評】“なんてウマいんだ!” ニューヨークの小学生に「おにぎり」配布 “日本のお米の良さ”アピール


閑話休題。現代風にいえば、換金率のいい金融商品になったのです。倍塚を破却して土壁にして売って、跡地は田んぼにして高品質の米を収穫すればが立ちました。そのようにして青塚古墳群の陪塚が次々に破却されていきました。古墳が生き残るには厳しい時代だったのです。曾祖父は私財を投げうって青塚古墳を護り、地元の神社に託すことで未来永劫の保存を願ったと解します。

歴史の遺産は無くなるときは一瞬です。もう二度と元には戻りません。我が母校に楽田城の城山がありました。太閤秀吉の本陣にもなったお城ですが、私の小6の時に平地になってしまいました。あの無念は忘れられません。

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楽田城址碑1.png

楽田城址碑2.png


それにしても青塚古墳ですが、1700年以上もの長い年月、よく原型を留めて保存されています。手を加えたのは豊臣秀吉(配下の森長可。長可は森蘭丸の兄)くらいのものです。(小牧長久手の戦い)
現地を訪れた事のある方なら「何だこの美しさは?」と思わずにはいられません。古代と中世、近代と現代が調和しすぎて「脳がバグる」美しさです。それは地元青塚の集落の皆さん1700年間先祖代々古墳を護り続けてくれたおかげなのです。私の同級生にも青塚集落の人が何人かいましたが、縁の下の力持ちを絵にかいたような、粘り強く地道な仕事も黙々と遂行する同級生たちでした。

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写真は昭和時代の青塚古墳です。周辺には見守るように田畑と民家が並び、完璧な防犯体制が敷かれていました。墓荒らしなんて入る隙もありません。
小学生時代、学年全体で古墳見学をしましたが、どうしても古墳のふき石が剥がれて下の田んぼに落ちます。地元のばあさまが、そのつど、文句のひとつも言わず、地道にひとつひとつリアルタイムで修復するのです。あの光景も忘れられません。1700年以上奇麗に保存されるわけです。

記事を書いていると古い記憶が蘇ります。古墳見学の校外学習は風薫る5月、よく晴れた土曜日の午前の授業の時間枠全体を使って行われました。昭和の当時、土曜は半日授業です。楽田城の城山の前に6年生集合。振り返れば城山に見送られて古墳を訪れる事のできる最後の日でした。青塚や周辺集落の級友たちはランドセルを背負って、下校も兼ての見学です。青塚集落から楽田小学校まで徒歩1時間以上かかりますが、この見学の日だけは現地解散することができて、彼らにとって、小学校生活6年間のなかで唯一無二の、最良の下校の日だったと思います。(※最初は、1時間かけて古墳へ行って→1時間かけてまた学校に戻って→さらにまた1時間かけて下校の予定でしたが、あまりにも可哀そうということで、先生方の協議の結果、現地解散になりました)

閑話休題。平成の初期までは古墳の野焼きの風習がまだ残っていて何度もこの目で見ています。野焼きは青塚の集落の人たち総出で行われる一大イベントでした。もしも野焼きが無かりせば、他の多くの古墳同様、あっというまに雑木林になって美しさは失われます。1700年以上も前…応神天皇の時代(所謂倭の五王の時代)よりも昔から連綿と続いてきたのかと思うと、青塚集落先祖代々様には畏怖と畏敬の念を覚えずにはいられません。青塚古墳が素晴らしいとすれば、それは青塚の人々が素晴らしいのです。青塚古墳は鏡に映る人の姿、人々の生き様と解します。