狗奴國國王墳発見
皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
魏志倭人伝に登場する狗奴國の國王墳は尾張國の旧樂田村、羽黒村にありました。
まず目を見張るのが大きさです。前方後方墳で日本最大は、群馬県前橋市の八幡山古墳の130mが最大とされてきましたが、墳丘長はその3倍に達します。
前方後円墳を含めても、仁徳天皇陵、応神天皇陵に次ぐ、全国で3番目の大きさになります。
日本古墳ランキング(全長)
①大山古墳(大仙陵古墳/仁徳天皇陵) 約525m(大阪府堺市)
②誉田御廟山古墳(誉田山古墳) 約425m(大阪府羽曳野市)
③三ツ塚大塚古墳(狗奴國國王墳) 約390m(愛知県旧樂田村・羽黒村)
④上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳) 約365m(大阪府堺市)
⑤造山古墳 - 約350m(岡山県岡山市)
⑥河内大塚山古墳 - 約335m(大阪府松原市・羽曳野市)
破壊された狗奴国国王墳
墳丘は完全に破壊されています。同じく破壊された巨大古墳として、令和7年3月1日、奈良市の佐紀古墳群で、平城京造営の際に破壊されたとみられる全長約200メートルの巨大前方後円墳の痕跡が見つかったと奈良市が発表しました。

よんななニュースさま記事より画像引用
https://www.nara-np.co.jp/news/20250302212143.html
奈良市の村瀬陸学芸員によれば「完全に消滅した全長200メートルもの古墳が見つかるのは全国初」としますが、390mの古墳消滅はそれを上回ります。狗奴国が滅びたか否かは、空白の四世紀のため、主に「滅亡・吸収説」と「存続・発展説」に分かれ確定していませんが、墳丘は完全に破壊されていることから、邪馬台国と抗争し、滅亡したとみるのが自然と、この記事では結論付けます。
楽田村の七大古墳群

愛知県の楽田村は、百舌鳥・古市古墳群に次ぐ、国内2番目の規模の古墳密集地と記事主は解しています。例えば小牧長久手の戦いで、太閤秀吉の本陣にもなった楽田城の周囲には20基以上の前方後円墳が密集しています。(※記事主の個人的見解です)

その楽田の七大古墳のなかで、三ツ塚・長塚古墳群だけが異質なのです。
視点を西の方に移し、昭和50年の国土地理院空中写真で確認したところ、発見に至った次第です。後方部の大きさが、隣の中学校(記事主の母校です)の敷地とほぼ同じ面積ということが、おわかり頂けると思います。


国土地理院陰影起伏図
地名は「三ツ塚」「林吾塚」
地名から考えて、巨大古墳が複数、近辺にあるはずです。
…ありました。
ところで追分古墳ですが、記事主の中学の通学路でした。まさか三年間通っていた追分の道筋が狗奴国の巨大古墳の前方部だったなんて!

前方後方墳の前方部が、きれいに追分になっている事例は検索しても出てきませんので、日本で唯一ここだけかもしれません。
まとめ
狗奴国の国王墳墓は前方後方墳が有力で、しかも日本で3番目の大きさのものを含む、数多くの300m級~400級の痕跡が楽田村、羽黒村にある事実は、①狗奴国は濃尾平野に実在していた証明になります。これを間接事実として②邪馬台国は関ケ原の西側(畿内説)が有力と推認されます。以下考察です。
| ①歴史は勝者が作る 『記紀(古事記・日本書紀)』には、狗奴国に関する記述が一切ありません。ということは邪馬臺(ヤマト)国、もしくは黎明期の大和朝廷が狗奴国を武力で打倒した後、その威光を消し去るために、王の象徴である巨大前方後方墳を物理的に破壊し、同時に記録から完全に消去したことになります。 (大和朝廷は、けっして嘘はつきませんが、第一回遣隋使を無かったことにする等、全てを書き残すわけでもありません) |
| ②「東西二大国家」時代が古代史に出現 3世紀から4世紀にかけての日本には、邪馬台国(あるいは黎明期の大和朝廷)の「大和連合国家群」と東海・北陸の「狗奴国と同盟諸国」という、巨大な二つの勢力が並立していた。 |
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③軍事力では狗奴国が勝る 2. 東西巨大陣営の激突
このように、壬申の乱をみれば、当時の指揮官の取った、対狗奴国への戦略が見えてくるのです。大和朝廷による巨大古墳破壊の痕跡は、大規模な会戦(野戦)の末に滅ぼされたことを示唆しているのです。長期的攻城戦の末の和解でもなく、ミッドウェイの空母4隻撃沈のような、短期決戦による、決定的な敗戦だったと思われます。 |
大海人皇子も戦訓にしたと想定される、壬申の乱から遡ること約400年前の対狗奴国戦術ですが、いったい誰が考案したのか検討します。魏の使者「張政」の助言による可能性が高いと考えます。
三国志において、関所(要塞)を封鎖または確保し、そこを起点として複数の方面から魏への侵攻を試みた代表的な事例は、諸葛亮の北伐に見られるからです。
蜀漢が国力の差を補うために、関門という地形を利用して魏軍の移動を制限し、複数のルートから一度に侵攻する「各個撃破」の戦術を好んだことは、三国志の読者なら誰もが知るところであって、いわんや魏の使者「張政」は同時代の人です。
横山光輝先生 -GR- THE ANIMATION 「地球が静止する日」より画像引用
| ④東西の激突の後は、「平和裏な統一国家の形成期」に入ったと思われる。 令和書籍の「記紀が伝える日本統ー」の記述を引用します。 大和朝廷が成立した当時の国内の文字資料は見つかっていませんが、「日本書紀」は、神武天皇御即位の後、第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までの間に列島内の同盟政策が進められたことを記しています。 「古事記」には、かなり詳しい系譜が書かれていて、皇室が各地の豪族と婚姻関係を結ぶことで同盟政策を進めていったことが反映されたものとの見解があります。 |
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⑤東西文化の原型の形成 モチの形から、ダシ、カレーの牛肉・豚肉といった食文化から、人間関係までいちいちあげるとキリがありません。 |
東西文化の違いの一例。糸谷哲郎挑戦者応援のために自費でハワイに駆けつける関西棋士たち。関東の棋士には絶対にありえない関西独特の文化。目に見えない集団の力(関西文化の力)もあって森内俊之竜王(関東棋士)との初戦を制し、結果として竜王位も獲得した。【2014年の第27期竜王戦第一局ハワイ対局】


三文堂のひよこ様BLOGより画像引用
https://kishikawa.doorblog.jp/archives/40782102.html
| ⑥「壬申の乱」が再解釈される 狗奴国滅亡から400年後の壬申の乱(尾張・美濃の兵力を掌握した天武天皇が近畿を制圧した事件)は、かつて滅ぼされた狗奴国の地(濃尾)の力を借りた、古の時代のリベンジ(後年の薩摩のチェスト関ケ原・長州の「(倒幕の)時は来たか?」「まだ早い」→260年後「時は来た」・会津藩出身の抜刀隊のようなもの)でした。歴史の押韻です。 |
| ⑦考古学的な「空白の4世紀」の解明 4世紀は記録が乏しく「空白の4世紀」と呼ばれますが、その真相が「大規模な内戦と、敗者の文化・古墳・記録の消却」であったと説明がつきます。 出土品のミッシングリンクが埋まり、なぜ東海地方の優れた土器文化や鉄器文化が突如として変質したのか(あるいは途絶えたのか)の答えが「王朝滅亡」として証明されます。 |
| ⑧結論としての歴史教科書の記述 もしこれらが証明されれば、山川の歴史教科書は以下のように書き換えられるでしょう。 「3世紀、濃尾平野には邪馬台国を圧倒する規模を誇る狗奴国が存在した。王国の都は尾張国の旧楽田村にあった。しかし4世紀末、近畿を拠点とするヤマト王権との戦争に戦略的敗北。勝者となった大和朝廷は、狗奴国王の巨大墳墓をことごとく破壊し、その存在を歴史から消去した。我々が知る『日本』の形は、古代文明の破壊と再構築の上に成り立っている。」 |
…ということになりますが、皆さん、こんな①~⑧の史観が受け入れられると思いますか?とてもじゃありませんが受け入れられることはないのです。狗奴国国王墳は、引き続き無かったことになります。
なぜなら日本中、どの家庭の押し入れにも木乃伊(ミイラ)が仕舞ってあるからです。ミイラのおかげで家の平穏は保たれているのです。これにはタダのひとつも例外がありません。日本国もその例外ではないのです。我々のご先祖様がそのように選択された以上、その意思は尊重しなければなりません。今の平和そのものの日本の礎はこの意思にこそあります。
押し入れのミイラにつき、ただ放置するのは許されず、綿密な環境管理と、ときには思い出してあげることが必要です。この記事を読んで頂いた皆様にも、ふと古代に思いをはせてもらえると、古代の人々も浮かばれ、現代の平和も保たれるのではないでしょうか。
(歴代狗奴国国王と人々の魂が、楽田と羽黒の地で静かに安んじられる=(イコール)日本の平和を、記事主は願います。)
追伸
周囲には、もっとたくさんの古墳境界が見つかるはずです。(三ツ塚大塚古墳と北野屋敷古墳は記事主の引いた境界よりも大きい可能性があります)。
例えば羽黒村の高橋古墳群のひとつ、天燈寺古墳は円墳とされてきましたが、東側をみると後方部がありますので、狗奴国の前方後方墳と、この記事では結論付けます。(高橋古墳群の他の4基も前方後方墳なのでしょう)。そしてさらに東方にも400m級の前方後方墳が確認できます。
天燈塚古墳からは家形石棺が出土しています。石棺の両側に壷や勾玉の彫刻が、蓋の上面には蛇行状の溝が施されていました。一部が羽黒小学校の校庭に保存されています。狗奴国の明確な唯一の出土物かもしれません。
http://obito1.web.fc2.com/inuyamaminami.html
天燈塚古墳に石棺があったということは、三ツ塚大塚古墳には、より巨大な石棺があったはずです。狗奴国全盛期王の石棺はどうなったのでしょうか?
ヒントは、やはり地名にあります。
大塚前方部の東端に「石塚」の地名があります。破壊された墳墓の石棺は、おそらくこの地に打ち捨てられ、地域の貴重な採石場になったのではないでしょうか。石棺は1700年の時を経て跡形もなく消え去りましたが、土地の記憶は残されていると解します。
昭和の空中写真を見る限り、他にも大小数限りなく多くの痕跡があり、狗奴国の強大な国力と、この地域の豊かさが垣間見えます。
たくさんありすぎて、狗奴国の国力は記事主のキャパをも遥かに超えています。大塚古墳も最大で468mと、応神天皇御陵よりも巨大な可能性があります。そうだとすれば、仁徳天皇御陵の巨大さは、狗奴国国王墳を凌駕するために必要に迫られての矜持だったということになります。
楽田村と羽黒の7大古墳群は失われたものも含めると200基近くになり、規模やその巨大さにおいても、西の百舌鳥・古市古墳群に匹敵する東の巨大古墳群となります。
それにしてもおそろしい。これは沼です。調べれば調べるほど深みにはまります。楽田の他の大和朝廷時代の古墳群との関係性に、仮に狗奴国の考古学的証明となると一生をかけて取り組むべき規模で、しかも莫大な予算が必要となります。先に述べた理由の通りで証明をしては絶対にならないのですが、私にはとても…。こうなると大正時代に私財を投じてまで青塚古墳群の(所有権に基づく)発掘調査をした曾祖父の偉大さが改めて思い知らされます。(ひいじいさんよ、あなたは偉かった…)












